2015年 5月
神の業が現れるため
ヨハネによる福音書 9章1〜12節
狛江教会牧師 岩 田 昌 路
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」 (ヨハネによる福音書 9章1〜3節)
人生の苦難をどのように受けとめるか。人間はしばしばそれを過去から説明しようとします。苦難の原因を過去の悪行や罪に求めようとするのです。生まれつき目の見えない人を前にして、主イエスに問い向けた弟子たちも同じです。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」一人の人間の苦難を過去の罪の結果として説明しようとするのです。
これは因果応報とよばれる考え方です。確かに、「身から出た錆(さび)」として明らかに自他ともに納得できる苦難の原因があるかもしれません。しかし、人生の苦難はそれだけでは説明できないのです。
そこにこそ人間の苦悩があるのではないでしょうか。
ある人は人生の苦難を運命としてとらえるかもしれません。
私たち人間の力の及ばない、変えようのない運命にあるとするならば、それも仕方がないというあきらめにみちた受けとめかたにすぎないのです。
このように、人間は苦難の問題において因果応報や運命信仰にしばられてしまうことが多いのです.
主イエスは全く異なる視点から苦難の捉え方を教えておられます。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
これは、人生の苦難を過去の罪の結果としてではなく、将来の神の業のためであるとする受けとめかたです。
驚くべき御言葉です。
とても人間が語りえる言葉ではありません。苦難に悩む者にこれから神がなさろうとすることがあるというのです。
生まれつき目の見えない人は、主イエスに癒されて目を開かれることになります。そのために、主イエスは泥を作り、その人の目に塗られました。神の業を行うためにまず目を塞ぎ覆われたのです。
それから光が与えられるのです。目が塞がれ、覆われることを通して、神の業がその人の開眼が実現するのです。
不思議な御業です。
生まれつき目の見えない人は、主イエスに癒され、自分に起こった神の業を証しする者とされました。彼の苦難は無意味なものではなく、神の業が現れる目的であたえられたものでした。
私たちも人生の苦難の中で苦悩いたします。しかし、主イエスの御言葉に触れるとき、確かな人生の目的を知り、因果応報や運命信仰から解き放たれて生きることができるようになります。
主イエスはどんな時も共におられ、あなたの信仰の目を開いてくださるのです。