神の祝福はすべての人々に 』          

ガラテヤの信徒への手紙   3 79

狛江教会牧師   岩 田 昌 路

 

だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています

(ガラテヤの信徒への手紙  379節)

 

今年の平和主日に示された聖書の言葉です。

今回の説教に「神の祝福はすべての人々に」という題をつけました。教会は神の祝福に生き、神の祝福を告げる共同体である、ということができます。神の祝福はすべての人々に向けられているからなのです。

 

神の祝福に生き、神の祝福を告げる。それは、世界に平和を造り出し、広げるためにも必要なことです。地上の世界では、いつの時代にも平和が祈り求められますが、むしろ、罪の連鎖、すなわち、憎しみや裁きや殺し合いの連鎖がやむことはなく、人類を滅びに陥れる暗闇の力は、広がり深まるばかりです。
歴史が証明しているように人類は繰り返し戦争の悲惨を経験してきました。
人間自身の自己本位な正義や平和への追求が、結局は無益な戦いを生むことになるのです。
聖書はここに人間の罪(的外れ)を見つめています。
真実な正義や平和を造りだすことができず、むしろ、悪しき力の虜になってしまう人間の罪、愚かさ、弱さを自覚することは、実は大切なことなのです。
そして、キリスト教も含め、地上のどのような宗教であっても、自己本位な人間の支配下に神が利用されるようになると、最も恐ろしいことになるのです。

 

 

教会が神の祝福に生き、神の祝福を告げる共同体であり続けるために、先に救いへの導かれた信仰者たちは絶えず聖書の言葉を謙遜に聴き続け、神のみ心を祈り求め、自分の罪を自覚し、神の前に悔い改めることが必要です。そして、さらには神の祝福がどれだけ大きなものであるかを絶えず受けとめ直すことが必要なのです。

 

 

使徒パウロは、「信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。」(9節)と記しました。旧約聖書の創世記に登場するアブラハムが想起されています。アブラハムは、主に呼び出され、祝福の源の約束を与えられ、主の御前に義と認められた信仰の人です。使徒パウロは、アブラハムに約束された神の祝福は、神に選ばれた神の民イスラエルの人々だけでなく、主イエス・キリストによって、異邦人と呼ばれた人々にも及ぶようになると、記しているのです。

 

 

旧約の時代には、神の律法を授けられ、割礼を受け、日々律法の戒めを重んじて生きる神の民だけが、神の祝福の器とされていると考えられていました。キリスト者となったユダヤ人でさえも、洗礼を受けるだけでは不十分であって、律法を重んじ、割礼を受けることが必要であるという人々がいました。しかし、使徒パウロは、そのような考え方は、主イエス・キリストの十字架の死に現された神の恵みを無にするものであると主張するのです。

 

 

使徒パウロの記す「信仰によって」とは、私たちの側にある信仰を根拠にしてという意味ではないのです。なぜなら、私たちの信仰は不確かなものであり、確かなものは神の側にあるからです。