『 自分の十字架を背負って 』  

ルカによる福音書 92324

狛江教会牧師   岩 田 昌 路

わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。…」 (ルカによる福音書 92324節)

主イエス・キリストがお語りになられた招きの言葉です。世のすべての人々に向けられた言葉です。信仰とは、「わたしに従いなさい」と語られる主イエス・キリストに従うことであると言えます。三つの言葉に触れておきます。

第一に「自分を捨て」という言葉に注目します。これは単なる自己否定、消極的な生き方への勧めではありません。生命を軽んじる狂信的な生き方でもありません。主イエスの言葉に従い、神様を第一とする生き方への勧めです。すなわち、あらゆる意味で、自己を第一とし、自己に根拠を置き、自己にこだわる生き方から離れることが求められています。自分を捨てることが全く意識されない信仰は、人間中心主義の生き方に堕落します。人間の身勝手な思いの下に神のみ心を置き、神の言葉を人間の言葉に塗りこめてしまうのです。結局は、自己を偶像化し、主の名をみだりに唱える罪に陥ることになります。「自分を捨てる」ことは、『主の祈り』の前半の祈り、主のみ名をあがめ、主のみ国を待ち望み、主のみ心が地になるように祈ることとも重なります。けれども、自分を捨てることは人間の力で可能なことではありません。私たちに向けられた神の完全な愛に支えられてこそ可能になることです。

第二に「日々」という言葉です。「日々」とは日常を表わす言葉です。信仰生活とは毎週の日曜日に礼拝を捧げるだけではなく、平日の日々の生活の中に、主イエスに従う喜びと感謝に溢れる信仰生活が造られるのです。私たちは礼拝から遣わされるさまざまな場所において、主に救われた者として歩みます。礼拝と日々の生活は深く結びついているのです。

第三に「自分の十字架を背負って」という言葉です。「自分の十字架」とは何を意味するのでしょうか。人生の苦難、特に信仰者ゆえに引き受ける迫害や殉教のことであると考える人がいます。しかし「日々」という言葉からもう少し広く考えてよい言葉です。信仰者としての召命、使命、奉仕であると考える方がよいと思います。特に主イエスが最も重要な掟として示されたように神を愛し、隣人を自分のように愛する生き方を思い起こしてよいのです。神と隣人を愛し、神と隣人に仕える生き方は、簡単な道ではないからです。

信仰は決して悲壮な生き方を生むのではありません。何らかの自分の十字架を背負う時、すでに自分が主イエスの十字架に担われている恵みがよくわかるようになります。私たちが神の御前に罪を赦され、永遠の命を約束された者とされるために、主イエスはあの十字架で命を捨てて下さいました。神に愛された命を互いに大切にして生きるために、私たちは主イエスの招きに従うのです。受難節(レント)は、主イエスの苦難と死を想起する時節です。神のなされた救いの出来事を共に見つめ歩みましょう。