『 喜びのうちに救いの泉から水を汲む』 
旧約聖書 イザヤ書12章1−3節                                                  
狛江教会牧師    岩 田 昌 路

その日には、あなたは言うであろう。

「主よ、わたしはあなたに感謝します。

あなたはわたしに向かって怒りを燃やされたが

その怒りを翻し、わたしを慰められたからです。

 見よ、わたしを救われる神。

わたしは信頼して、恐れない。

主こそわたしの力、わたしの歌

わたしの救いとなってくださった。」

あなたたちは喜びのうちに

救いの泉から水を汲む。 (イザヤ書12章1-3節)

 

 主なる神が新しき2021年を備えてくださり、私たちは共に歩み始めました。年頭にあたり旧約聖書のイザヤ書12章1-3節が示されました。イザヤは、主イエス・キリストの誕生より、およそ750年前に、神の召しを受けて預言者として南ユダ王国で活躍した人です。イザヤという名前は「神は救いである」との意味でありますが、彼はまさしく「神は救いである」ことを、神の民に示した預言者でした。イザヤ書12章は、神は、神の民の罪を裁かれたのち、神の民を救いの回復へ導いて下さるという約束を、告げています。ここに、神の救いにあずかる者たちが生き生きと主をほめたたえる姿が見えてきます。

イザヤ書は、ある歴史の途上で語られた預言であり、第一には、南ユダ王国の滅亡、バビロン捕囚の苦難、故国への帰還、神の民の回復という歴史的な文脈の中で意味をもつ言葉であります。一方、イザヤ書の中には、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ。」(7章14節)との御言葉のように、のちに救い主イエス・キリストの誕生を預言する言葉として読まれる言葉があります。

冒頭の「その日」(1節)は、神の救いによって神の民が回復する日のことですが、神の救いの歴史全体から見渡せば、主イエス・キリストの救いに預かる日、さらには、神の国が完成する終わりの日をも指し示しているのです。そして、ここに描き出される神を賛美する姿は、教会に生きる者たちの姿として受けとめることができます。

神の民の賛美は、「主よ、わたしはあなたに感謝します。」(1節)という言葉から始まります。私たちの神への応答と信仰の歩みは感謝から始まるのです。私たちの信じる神が、私たちを救われる神であるからです。ハイデルベルク信仰問答は、第三部を「感謝の生活」として、神に救われた者の生活を明らかにしています。私たちの信仰的な営みの根底には、神への深い感謝があるということです。

神は救いである、ということについて、私たちが忘れてはならない大切なことがあります。神は私たちの罪をうやむやにされたのではない、ということです。聖なる神は人間の罪を正しく裁かれるお方です。聖書は、神の民が経験したバビロン捕囚の苦難は、神の民の罪に対する神の裁きであったことを告げています。さらに、聖書は、あの主イエス・キリストの十字架の出来事こそ神がすべての人間の罪を裁かれる出来事であったことを告げているのです。

主イエス・キリストは聖なる神の独り子、罪なきお方です。このお方が私たちの身代わりになり神の裁きを引き受けて下さいました。神が怒りを翻されるということは、主イエス・キリストにおいて決定的になります。人間の罪に対する神の怒りは、神の独り子に向けられて、人間の罪は赦されることになるからです。「その怒りを翻し、わたしを慰められた」と記されています。「慰め」は、イザヤ書において、とても大切な響きを持つ言葉であります。

「慰め」は「救い」と深い関わりがあり、イザヤは神に救われることを、神に慰められることとして、告げているのです。キリストの体なる教会も神の救いに生きる群れであり、神の慰めに生きる群れでもあります。教会は救いの共同体、慰めの共同体として、「見よ、わたしを救われる神。わたしは信頼して恐れない。主こそわたしの力、わたしの歌 わたしの救いとなってくださった。」(2節)と告白し賛美します。

イザヤは、神の民に「あなたたちは喜びのうちに 救いの泉から水を汲む。」(3節)と告げました。これも素晴らしい御言葉です。教会は救いの泉から水を汲む幸いなわざに生きるのです。教会に使命として与えられている伝道、教育、牧会、愛のわざ、そのすべてが救いの泉を汲むわざなのです。神の救いの泉は尽きることがなく、そこに湧き出る水は人間の最も深い部分を癒し潤す救いの生きた水です。神を信頼して生きる者たちは、感謝とともに喜びに満ち溢れて、いつでも救いの泉から新たな恵みの力を頂き続けるのです。

主イエスはやがて「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(ヨハネによる福音書4章14節)と語られました。主イエスこそ、永遠の命に至る水の与え手です。しかも、ここに驚くべきことが語られています。主イエスの与える水を飲む者自身が、泉とされるという約束です。主イエスに癒され、潤され、慰められ、救われた者たちは、救いの泉そのものとされて、神の救いの御業に豊かに用いられるというのです。

 新たな年、世界には依然として、罪と死の力、悪しき力がもたらす暗闇があり、新型コロナウイルスの苦難がありますが、狛江教会に仕える私たちは、いつも感謝と喜びに満ち溢れ、救いの泉から水を汲む幸いな務めに召されていることを覚えて、神と人とに仕え、慰めの共同体、伝道する教会を形成する業に励みたいと願っています。主を生き生きと賛美しつつ、共に歩みましょう。敬愛する皆様の上に、父なる神と主イエス・キリストの恵みと平和が豊かにありますようにお祈りします。