『 主の平和に生きる 』
旧約聖書 イザヤ書26章1−4節
狛江教会牧師 岩 田 昌 路
その日には、ユダの地でこの歌がうたわれる。
我らには、堅固な都がある。
救いのために、城壁と堡塁が築かれた。
城門を開け
神に従い、信仰を守る民が入れるように。
堅固な思いを、あなたは平和に守られる
あなたに信頼するゆえに、平和に。
どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。 (イザヤ書26章1-4節)
これは神の民に与えられた勝利の歌です。私たちもこの勝利の歌を喜びと感謝をもって歌い続けることができます。「どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。」(4節)という勧めと告白は、キリストの教会が世の人々に向けて語る招きの言葉ともなります。私たちは主に信頼して生きることがどんなに素晴らしいことであるかを知っています。一人でも多くの方々と共に、この勝利の歌を歌いながら歩み続けたいと願っているのです。
この勝利の歌の中で注目したい言葉は、「平和」という言葉です。原語のヘブライ語では「シャローム」という言葉で、聖書全体に響きを立てている、重要な言葉です。「シャローム」は、「平和」や「平安」と訳されますが、人間の生のあらゆる領域において真に望ましい状態をあらわす言葉です。それは、主なる神の意志と御業によって与えられる、神の賜物で、神と共にある者たちに実現する状態なのです。そして、「シャローム」は、挨拶の言葉としても用いられる言葉でもあります。
3節には「シャローム」という言葉が二回繰り返されています。二つの「シャローム」を新共同訳では分けて訳出していますが、口語訳では「全き平安」、新たな聖書協会共同訳では「確かな平安」という言葉でまとめて訳出していることがわかります。どこまでも主を信頼する堅固な思いを、主は「全き平安」「確かな平安」をもって守られると告白され約束されているわけです。聖書に証言される神は契約の神であられます。旧約や新約の約は、契約・約束を表します。主なる神は変わらない愛をもって神の民に約束されるのです。神の民とは、神の契約、神の約束に生きる民なのです。
このイザヤ書を読み進めると、次のような御言葉に出会います。
山が移り、丘が揺らぐこともあろう。
しかし、わたしの慈しみはあなたから移らず
わたしの結ぶ平和の契約が揺らぐことはないと
あなたを憐れむ主は言われる。 (イザヤ書54章10節)
この世でどんなことが起ころうと、主に信頼する者たちには、主の平和が約束されているのです。
あの3.11東日本大震災から10年目を迎えています。私たちはまさしく地を揺らがせられる経験をしました。また、この一年間は、世界中の人々が新型コロナウイルスによる苦難の中を歩み続けてきました。世界全体、国全体が経験する苦難だけではなくて、個人的な生活の中で各自が経験する苦難もあります。私たちの人生には、絶えず苦しみや悲しみが起こり、私たちは恐れや不安に陥るのです。
反対に、私たちは順調な日々の歩みの中で、神に与えられている恵みを忘れ、自分自身の知恵や力を過信し、傲慢になり、エゴイズム(自己中心主義)に陥ることがあります。この地上の歩みに生きる人間たちは、順境の中にも、逆境の中にも、主を信頼することから離れさせ、人間を歪めるような誘惑を受けて揺らいでしまうことを、私たちは深く自覚している必要があります。しかし、神の言葉は真実であり、神の契約が揺らぐことはないのです。
聖書は「どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。」と語ります。しかし、問題は、私たちが自分自身の意志力だけでは、どこまでも主を信頼する堅固な思いを抱き続けることができないということです。私たちは知っているのです。旧約聖書の神の民と同じように、あるいは、新約聖書の主イエスの弟子たちをはじめ、すべての信仰者たちと同じように、私たちも弱く無力な罪人に過ぎないことを。
教会の暦では、受難節(レント)の歩みの中にあります。主イエス・キリストの苦難を覚えて、深い悔い改めに導かれながら歩む時節です。イザヤ書53章に「主の僕の苦難」が預言されており、やがて主イエス・キリストの苦難に重ねて読まれるようになりました。その中の一節に次の言葉があります。
彼が刺し貫かれたのは
わたしたちの背きのためであり
彼が打ち砕かれたのは
わたしたちの咎のためであった。
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。 (イザヤ書53章5節)
実に不思議な言葉です。苦難の僕が受けた懲らしめによって、私たちに平和があたえられ、彼が受けた傷によって、私たちは癒されるというのです。まさにこの不思議な言葉が実現した出来事が、主イエス・キリストの十字架でした。主イエスの苦難と死は、私たちが主の平和に生きることができるようになるための犠牲であったのです。
やがて、死の墓から復活させられた主イエス・キリストは、「あなたがたに平和があるように」(ヨハネによる福音書20章19・21・26節)と弟子たちに挨拶をなさいました。教会に生きる者たちは絶えず復活の主の祝福の挨拶を受け、主の平和に生きる者として新たにされます。世にどのような苦難があろうとも、あるいは、世にある生涯を終える時が来ようとも、私たちが主の平和に生きる者であることに変わりはありません。だから、教会は「どこまでも主に信頼せよ、主こそはとこしえの岩。」と告白し続けるのです。